平川貴秀(貴火泥)の世界


本来、自然には直線や真円などの形は殆どなく、歪みや非対称などの不規則なものが多いと思います。人は、長年整列した予測可能な図形を生活空間に取り入れてきた為か、思考や行動などもその様に予測可能な直線的なものが多くなってきたのではないでしょうか? その点、機械などを使わず人の手で仕上げるモノには、不規則という要素が必ず絡んでくると思います。(しかし、中には精密機械も顔負けの技を持つ職人さんもいますし、自然の中のフラクタル図形もありますが、その様な点については今は置いておくとします)

自然はとても素晴らしいものですが、時には牙を剥き人間生活を脅かす事もあります。この際に人はとても無力ですが、この様な状況でも人は生きていかなくてはなりません。したがって、自然と向き合う為には常に自然の掌の上で生きている事を感じて、理不尽な事も全て理解する事が必要だと思います。ですが、人は予想出来ないものについて不安を覚える生き物です。不安も大切なものですが、これを利用した経済世界が今の人間生活を根本的に不自然なものに変えているように思います。先ずは、人生や生き方などを直線的なものと考えるのではなく、不規則なものだと捉えて生きなおす事が、これからとても重要になるのではないでしょうか?


これらは全く関係ない事だと思われがちですが、自分の生活空間に不規則なモノをどんどん取り入れていく事が、良い発想に繋がりそして行動に現れていくのだと思います。人が毎日行う「食べる」という行為には必ず道具がつきまとい、この道具の世界から不規則な自然を味わうのは如何でしょうか? 母なる大地から作られた焼き物は、あらゆる食べ物や飲み物を人の体に入る前に調整してくれて、尚且つ大地と食物と人の関係を、口に入れた途端感じる事のできるモノだと思います。彼の焼き物は「焼締め」という釉薬をかけず高温で焼く方法で作られています。予測不可能な土本来の味わいも出ますし、器に水分が染み込みやすい為、使えば使うほど独自の情緒を味わうことが出来ます。焼き上がりは決して完成ではなく、持ち主それぞれが育て上げていく事によって成長していく器と言っても良いと思います。

平川貴火泥は、岡山県の山中に犬のソヒアと一緒に住んでいます。彼の生き方は、先ほど触れた「自然の掌の上で」という表現がぴったりだと思います。手作りの家、手作りの登り窯、手作りの野菜などに囲まれた生活は、自然と言う中に自分を置いて作品を作る為の最高の場所だと思います。この場所から生み出された、不規則で温かみのある彼の作品達を生活空間に取り入れてみると、これからのライフスタイルに色々と影響を及ぼす事になるでしょう。僕は既にその影響を知り感じている最中であります。

 

川喜田半泥子は、「慶世羅々々」「我が宿はそこらの土も茶碗かな」という言葉を残していますが、彼の生き方にはピッタリだと思います。

 

オノマサヒロ